2008年

家族でドライブ


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お盆休みは、実家で過ごしました。
特に目的を持って出かけるでもなく、家族でドライブ。
みさと天文台まで行ってみました。
昼間なので星は見えません・・・
行くならやっぱり夜でしょ。涼しいしね。
写真は天文台周辺からの風景です。
空が、雲が、近くにあるように見えます。
夜は、星に手が届きそうに見えるのかな。


奈良公園の鹿


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なら燈花会が始まるまで時間があったので、奈良公園をゆっくり散策していました。
ゆっくり歩いていると、肩から提げたバッグに何かが当たる感触。
写真の鹿が、私のバッグに鼻を押し付けていました。
私と鹿の目が合うと、
鹿  「バッグの中のもん、出して!」
私  「・・・・・」
鹿  「はよ、出さんかい!」
私  「・・・・・」
鹿  「鹿せんべいのおばちゃん見てるやんか!はやく!」
カツあげに遭いました。
それも鹿に。。。
そういえば、昔、広島・安芸の宮島の鹿にもカツあげされました。
焼きたてのもみじ饅頭を入れた袋を手に持っていて、袋ごと持ってかれました。
宮島の鹿は容赦なかったな~。
奈良公園のこの鹿は、私の反応の鈍さに呆れたのか(何も食べ物持ってなかった)、
急に耳をグリッと動かし、他のカツあげ情報をキャッチした様子。(写真がその様子)
とまあ、あまりの暑さに、私の妄想はピークに達しました。
 


なら燈花会


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奈良の燈花会に行ってきました。
夏の夜、こんなふうに彩られるのもステキですね。
欲を言えば、手前のロープが無いほうがいいですね。
裏を返せば、写真を撮る力量の無さが露呈しただけ。アングルが下手すぎ。。。
だって、ロープで囲っている所はそんなに多くないし、他の場所から撮ることだってできたはず。
とまあ、あまりの暑さに、私のセンスの無さはピークに達しました。


神は細部に宿る 押井守監督作品 『スカイ・クロラ』


今年の夏、観たい映画は・・・ずばりアニメです!
宮崎駿監督 『崖の上のポニョ』 http://www.ghibli.jp/ponyo/ と、
押井守監督 『スカイ・クロラ』 http://sky.crawlers.jp/tsushin/ です。
私にとって、アニメの夏!
早速、押井守監督 『スカイ・クロラ』を観ました。
日本国内よりも、海外での評価が高い監督です。
アメリカや海外のSF映画を変えたと言われる 『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は、
今観ても革新的です。
ウォシャウスキー兄弟監督 『マトリックス』は、この映画からインスパイアされたという話は、
あまりにも有名です。
『スカイ・クロラ』は、映像・音楽・ストーリーどれもが素晴らしい映画です。
詳しいストーリーは知らずに観ました。
知っているのは、永遠の命を持つ子どものままの姿をした“キルドレ”たちが、
ショーとしての戦争をする・・・。
オープニング・ロールの基地を目指して飛行する雲の上。
このシーンを見ているだけで、うっすらと涙。
直感的にラストを予感したかのようでした。
映画自体は、すべてのものが丁寧につくられています。どこにも手抜きなし。
まさに、“神は細部に宿る”。
スクリーンに映し出されている以外の音。
たとえば、部屋から人が出て行きます。
スクリーンで展開される映像は、その部屋に残っている人たちの言動です。
しかし、部屋を出る人がドアを閉める音は、私たち観客も聞きます。
映像にドアを出て行くシーンはないけれど、ドアを閉める音がする。
スクリーンに収まっていない部分も丁寧につくられています。
あっ、そうか、そうなんだ!
スクリーン以外にもスクリーンがあることに気づきました。
それは、“観客の心のスクリーン”です。
奇跡の大発見です。
映画を観るのは、心のスクリーンで観ているということ。
心のスクリーンに映し出すからこそ、心が豊かになっていくということ。
押井守監督のすごさ、偉大さを実感しました。 
この作品は、全体的にキルドレの空虚感が漂っています。
それなのに、最後に私の中から出て来た思いは、力強いものでした。
“人生は味わい深い”。
私たちは、自分の人生を自分の力で、味わい深いものにすることができる。
そんなメッセージを受け取りました。
味わい深い映画です。
残るは、ポニョだ!
宮崎駿監督は、私にどんな発見をさせるのか??


体験の積み重ね


料理の最中、お鍋の熱湯を手首にかぶってしまいました。
すぐに水で冷やし、事なきを得ました。
長時間水で冷やしたのが功を奏したのか、ちょっとジンジンしただけで、痕も残りませんでした。
実は、中学3年生の時、似たような体験をしました。
高校受験の前日、制服のスカートにアイロンをかけていました。
明日の受験のため、気を引き締めようと思ったのかどうか・・・遠い記憶です。
丁寧にスカートにアイロンをかけるついでに、
ご丁寧に左手の甲にもアイロンをかけてしまいました!
「あつッ!!」
すぐに流水で冷やせばいいものを、何を思ったのか、そのままアイロンをかけ続けました。
「アイロン終わってから冷やそう」
15歳の私は、ゆったりゆっくり。 ある意味、大物です(笑)
翌日は、激痛でした。
ジンジン、ジンジン、痛くて痛くて、左手がたまらなく痛い。
それでもなんとか受験には無事合格しました。
やけどの痕は、今も薄く残っています。
長い間、アイロンの三角形の型がついていたほどです。
ここで何が言いたいのかというと、やけどのことではありません。
“それまでの体験よって、その後の行動が変わってくる”とういことです。
当時の私は、それまで大きなやけどを体験したことがありませんでした。
家族にすぐに話して、どう対処すればよいか聞けばよかったのですが、
そういう考え自体持ち合わせていませんでした。
知識として、流水で冷やす、ということだけ知っていました。
いつ冷やすとか、どれくらい冷やすとか、まったく考えてもいませんでした。
今回熱湯をかぶった時は、25年前の体験を踏まえて、すぐに対処しました。
体験の積み重ねが、さまざまな障害を乗り越えるツールになります。
特に傷みを伴った体験は記憶に残ります。
しかし、小さな子どもは体験の積み重ねをこれから始めます。
体験の層はまだまだペランペランの薄さです。
いろんな体験を通じて、失敗したり、うまくいったりしながら、学習します。
そこから、危機を回避したり、障害を乗り越える術を身につけていきます。
新入社員も同様です。社会経験はこれからです。
仕事での体験が少ないため、もちろん失敗もたくさんします。
親は子どもの、先輩社員は後輩社員の、
体験の積み重ねのサポートをするつもりで接するとよいのではないでしょうか?
子どもの、後輩社員の、することなすことに目くじらを立てるよりも、
子どもの体験が、後輩社員の体験が、どんどん増えていくように関わってみてはいかがでしょう?
あなたがどう関わるかで、彼らの体験の質が変わってくるかもしれません。
前回のコラムで表現すると、
“体験も失敗も無駄なものはひとつもない”
無駄なものになるとすれば、体験や失敗を、本人がどう積み重ねるか、
親や先輩社員がどう関わるかどうかにかかってくると思います。
その積み重ねや関わりによって、体験が活きたものにも無駄なものにもなると言えるでしょう。


無駄なものは何ひとつない


昨日は見事なマジックアワーでした。
マジックアワーとは、映画・写真用語です。(三谷幸喜の映画で初めて知りました)
日没後の太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、
しかし最も美しい時間帯を指すのだそうです。
昨日はそんなマジックアワーを体験。
マジックアワーの光景を見ながら、
映画 『ザ・マジックアワー』のメイキング番組の中で、三谷幸喜がステキな話をしてくれていたのを思い出しました。

これだけすばらしいセットが出来ると、僕なんか貧乏性ですから、すべての壁、すべての小道具を撮らなければ、もとが取れないんじゃないかなと思うわけですよ。
その話をしたら、あるベテランの職人と呼ばれるスタッフの方が、こんなことを話してくれました。
「映画には無駄なんて何ひとつないんだよ。
ある意味、無駄だらけかもしれない。映らないものもたくさんあるかもしれない。
でもそれは実は無駄ではないんだ。
なぜならば、映像には映らなくても、俳優さんの目には映るかもしれない。
あの壁とか、この建物とか、絵には入らなくても、俳優さんの目には入るかもしれない。
それによって、俳優さんの芝居も変わっていくかもしれない。
そう考えると、映画の世界に無駄なものは何ひとつないんだよ」

じーんときました。
一見、無駄に見えるものも、無駄ではない。
スクリーンという平面の世界を、
立体的に見せるのは、感じさせるのは、俳優さんがその場で体感していることそのものです。
あの映画も、この映画も・・・
そこには、私たちが実際に目にしていないものもたくさんあるけれど、俳優さんを通じて感じることができるということです。
あらゆる関係がお互いに作用し、作品が生まれる。
映画の世界に限らず、どんな世界でも、私たちを取り巻くすべてに共通することだと思います。
今まで無駄だと思っていたことも、別の角度から見ると、無駄ではないかもしれません。

さいだねブログもご覧ください。


笑いと幸せ


ここ1週間で2度、妹に会いました。
この日記では妹ネタが多いなと思われているでしょう。
理由はカンタン。
おもいっきり名前(誰のことかを)を出せる人物だからです。
妹と私の笑いのツボはよく似ているというか、同じような気がします。
お互いのツボにはまると、
声が出ないくらい、涙が出るくらい、お腹の皮がよじれるくらいに、お互い大笑いします。
自分の笑いたいところで、安心して大笑いできます。
こんなこと、ありませんか?
誰かの話を聞いていて、
「ここは笑っていいところかな・・・??」
笑いを躊躇すること。
私はたまにあります。
理屈抜きに笑う。
自然な笑いがいちばん。
今年のお正月、
腹筋を痛めるほど、母とも大笑いしました。
いっしょに笑いあえる家族がいるって幸せなこと。


仏教語


「オシャカ」(お釈迦)
「オダブツ」(お陀仏)
最近は使うことも少なくなった気もする「オシャカ」や「オダブツ」。
仏教語が転じたものなのだそうです。
他にも刑事ドラマでおなじみの「ホトケ」は「仏」。
「覚悟」 「修羅場」 「奈落」 「ぜんざい(善哉)」 「醍醐味」 「ありがとう」 「大丈夫」・・・
これらも仏教語です。
仏教語本来の意味と、私たちが今使っている意味とは違います。
意味は変わってしまっても、私たちの先祖が残し、伝えてくれたことに変わりなし。
私たちには日本のさまざまな歴史が流れています。
実感がないとしても、ね。


“なぜ”には種類がある  ~看護師コーチング研修 6


仕事で後輩が失敗したとします。
私たちの第一声、
「なぜ、こんなことしたの?」
このパターンが圧倒的に多くないでしょうか?
ここで言いたいのは、「なぜ」がいけないということではなく、
「なぜ」には種類がある、ということです。
「なぜだろう?」
好奇心からの「なぜ?」のおかげで、私たち人類は進歩してきました。
好奇心や探究心を持って「なぜ」と他者や自分自身に問うことで、
問題解決につながったり、未来の可能性を広げます。
これは、私たちが持っている素晴らしい“さいだね”(才能のたね)です。
しかし、自分の中に相手を非難する気持ちや責める気持ちがあるとすると、
「なぜ」の向かう方向が違ってきます。
「なぜ」の意味合いが変わってきます。
少し立ち止まって、
自分自身の「なぜ」や「なんで」は、いつ、どんなとき、どんな気持ちで使っているのか
振り返ってみることも大事です。


通販の電話


百貨店から電話がかかってきました。
必要な商品ありませんか?
通販商品の営業電話でした。
会社員時代は、買いに行く時間がなかったので、
通販でお米や水など重たいものをちょくちょく買っていました。
だから今も電話がかかってくるのでしょう。
当時と今では、私の生活環境は大きく変化しています。
仕事も変わり、住む場所も変わり、買い物の場所も変わりました。
電話のあった百貨店で買い物することはめったにありません。
以前、購入した実績があるから、また買うかもしれないという判断かもしれませんが、
現在私がこの百貨店で年間にどのくらい買い物をしているか全体を見れば、
私自身の何かが変化しているのだということは一目瞭然です。
ものを売るのは商売の基本。
ものを売ることだけ考えていたら、売れない。
これも基本。
あっ、この話は、学びコラム向き(サービスorマーケティング系)でしたね。


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