2012年5月

自分で映す鏡


先日、久しぶりに歯医者さんへ行って来ました。
奥歯に小さな黒い部分を見つけて、もしや虫歯では~?
レントゲンと診察で、虫歯は無いとのこと。ホッ。
奥歯の黒い部分は、歯石でした。
今回の受診で、
自分では、しているつもりの歯磨きが、できていないことが分かりました。
上下の奥歯4本が、まったく磨けていなかったのです! ガ~ン!!
一番奥の手前の歯までは、磨きすぎぐらい磨いているのに、
上下奥歯4本は、存在しないかのように、磨いていなかったのです。
今は、意識して、いちばん奥の歯も磨いています。
しかし、今までどおりに磨くと、歯ブラシがいちばん奥まで届かないので、
歯ブラシをぐいっと奥まで差し込んで、違和感たっぷりで磨いています。
習慣になるまで、違和感のなくなる日まで、地道に続けます。。。はい。
もうひとつ、衝撃的だったのは、
左上奥に親知らずがあって、右と左の歯の数が違う、ということでした。
舌で触ってみると、確かに左のほうが1本多いです。
今までまったく気づかなかった新事実。
やはり、たまには(できれば定期的に)、専門家に診てもらって、
専門家に鏡となってもらい、自分の状態を確認することの大切さをしみじみ実感しました。
自分で映す鏡では、自分の体にもかかわらず、客観的に観察しきれないものですね。
自分の見たいようにしか見ていないのですから。。。
そして、晴れて、私の歯のファミリー入りを果たした奥歯4本、
これからは、大事にケアしていきたいと思います。
今までの分も、・・・これからも、お世話になります。


メディカル・ランナー


ある医療者のクライアントさんは、
今年の大阪マラソンに “メディカル・ランナー”として参加するそうです。
メディカル・ランナーとは、
ランナーが倒れた瞬間から心肺の蘇生を開始する役割、と聞きました。
参加のランナーと一緒に走りながら、まわりのランナーの様子を見ながら、自分も走る。
このクライアントさんは、スタートから12キロを走るそうです。
自分が倒れるわけにいかないので、ランニングしたりと少しずつトレーニングしていると聞いて、
やはり医療現場で働く人は、真面目な人が多いことを再認識しました。
特に、コーチングに興味のある人は、責任感が強くて、真面目な人が多いです。
話は変わりますが、
資格や免許を活かした仕事に就いていると、
それに縛られて、なかなか他の世界に飛び込めない、とか、これしかでいない、とか、
自分で自分に制限をかけている人が多いように思います。
このクライアントさんのように、資格を活かして、
メディカル・ランナーとして参加し、貢献し、大阪マラソンを体感することもできます。
資格を持った自分自身を、別の分野でも発揮しながら、他の人にはできない体験ができます。
資格を持っているからこそ、できることもある、ということです。
私はランナーとして参加できたとしても、できないのが、メディカル・ランナーです。
資格を持っていることの良さにも目を向けてみたいものです。
資格に縛られているのではなくて、
自分で自分を “ 資格 ”という縄でぐるぐる巻きに縛っている。
そのことに気づいたならば、縄を自分で解くことができます。
資格に限らず、日常のいろんなことに言えますが。
苦しいなと思ったら、自分で巻き付けた縄を、まずは見てみましょう♪


地面の底がぬけたんです


地面の底がぬけたんです~ある女性の知恵の73年史~ 』  
ハンセン病患者の藤本としさんの著書を読みました。
この本を読むきっかけになったのは、
もういいかい ~ハンセン病と3つの法律 』 というドキュメンタリー映画です。
著者の藤本としさんは、麻痺や、手の指も失い手のひらのみ、失明しています。
過酷な人生でありながら、
藤本としさんの文章からは、過酷さよりも、精神の自由、心の豊かさが伝わってきます。
私の心の辞書には載っていない、情感豊かな言葉の持ち主です。
過酷な体験こそが、
読む者の心を清めるような美しく瑞々しい言葉の数々を生み出したようにも感じます。
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧 新版 』でも書かれているように、
人としてのあらゆる自由を奪われても、誰一人として、精神の自由までをも奪うことはできない。
このことの意味を、藤本としさんからも教えていただきました。
『地面の底がぬけたんです』 の中で、特に心に沁みた “ ピンセット ” をご紹介します。
発想の、想像の、素晴らしさを味わってください。
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ピンセット
 私はたいへん調法なピンセットをもっています。
このピンセットはどんなに小さいものでも、またどれほど大きなものでもちゃんと鋏み取ってきて、
これは困ったというものはありません。
この利器がいつから私のものになったのか、いつごろから使い始めたものか、
とんと覚えはありませんが、ともかく最初は鈍感でなかなか働こうとしなかったことは確かです。
 
 それがこんなに使いやすくなったのは、全く習うより馴れろで、
私の心が自然に操作のこつを覚えこんだのかもしれません。
それともいつの間にか、先輩たちの知恵をまなび取ったものでしょうか。
明と闇とのさかいで、逆境から教えられたものでしょうか。
 ともあれ、私がこのピンセットを使って、毎日鵜の目鷹の目で、
芥のなかから拾い出しているもの、それは喜びなのです。安らぎなのです。
しあわせなのです。微笑のきっかけとなるものなのです。
私はこれらを重ねて、その日その日の太陽を作ろうとしているのです。
今日のピンセットは、このようなものを集めました。
 久しくベッドで苦吟していた友の、元気になった声を浴場で拾い、咲き初めた梅をたずねて、
かぐわしい匂いの中からいのちの美を摘み、老人の愚痴をその身になってきいてあげて、
おおきに・・・・・・この言葉を貰い、拭き掃除して叱られたが、
その言葉のうらから労りの砂金を取り、仏へ捧げた筈の合掌から、心へ大きな支柱をいただき、
二通も届いた手紙からは、それぞれに湧き出る愛念の泉を汲みました。
 しかし未熟の私は、まだ殆どの珠玉を見落としているのに違いありません。これからです。
これから私の腕が冴えれば冴えるほど、ピンセットは飛鳥の速さで何かを摑んでまいりましょう。
私は生涯このことに専念するつもりです。
芥即太陽、このことがしんから自分の感じとなる日まで。
(昭和三七年)
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成長


成長には、いくつかの種類があるように思います。
ひとつは、
子どもから大人への成長です。
それは、体の成長や、スポンジのように新しいことを吸収する成長。
身長が伸びるように、上へ上へと伸びて成長します。
30歳代ぐらいまでは、上方に伸びていく感覚が私にはありました。
40歳代に入って、
もうひとつ別の成長を感じるようになりました。
それは、上へ伸びていく成長ではなく、空間を満たしていく、横に伸びていく成長です。
子どもの頃のように、新しいものを吸収して伸びるのとはまた違い、
今までの経験の蓄積からの考え方や物事の捉え方が、他の考え方や捉え方と融合したり、
古い考え方を手放して、新しい考え方に持ち替えたりと、
自分の考え方・捉え方が、やわらかく広がっていく成長です。
高みを目指して成長するだけが成長ではなく、
自分のまわりにも目を向けて、横に広がって伸びていくのも成長だと思います。
しっかりと根を張り、自分にくつろぎながら、隅々まで、成長していく感覚です。
人生あと半分。
今日は、成長について、少しだけ成長した自分がいます。


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